『ブラック・ジャック 劇場版』

超人類マジ超人類。


井上喜久子17歳のカルテは思い出さないようにしているが
ロリータ患者のカルテは忘れないBJ先生の
種割れとか、旅とか、アクションとか相変わらずの魅せっぷりだが
後に前世!が雪の女王になるジョー・キャロル・ブレーンの反逆っぷりは
映画ならではのキャラクターになっていて良かった。


超人類の筋肉描写は範馬刃牙というか、
秋田書店のマンガ原作なんだよなぁ
と、改めて思うところがあり。

アウトレイジ

 ナンだコノヤロー
「ぼうりょく!!」だバカヤロー

ヤクザのおっさんしか出てこない男「けいおん!!」のような味わい。

黒人大使の巻き込まれシークエンスのフェードアウト連発は4コマぽかったなぁW

國村と蓮司の修羅場に面した表情はいちいち萌えだったよ。

Wフェイトの(ノ∀`)アチャー の方なの。


アニメは偽嘘(うそ)で出来ている


血潮は作画で 心は編集


幾たびの修羅場を越えてヤシガニ


ただの一度も黒字はなく


ただの一度も理解されない


彼の者は常に独り 偽嘘の丘で評判に酔う


故に、生涯に意味はなく


そのアニメはきっと偽嘘で出来ていた



劇場版「Fate / stay night - UNLIMITED BLADE WORKS」(以下「UBW」)観てきたぜ。


観ている途中で、これは劇場版らんま×ジャンプ映画なんだというスイッチを切り替えて観出すと結構面白く観れました。


コクトーさんが、原作に忠実すぎて大味な展開になってしまったと仰っておりましたが、そのとおりだと思う。


しかし、この映画はテーマ(偽りが真を貫く)に苦戦して、テーマに最後に救われたのだ。


ぶつ切り感満載の構成の堆積無しに、士郎のUBWカタルシスは有り得なかったと思わせたのだから。



ちなみに、2010年初のマッドシネマとも呼んで挙げて下さいねw(士郎の怪我の直りに関する描写のはしょりとか、言峰とランサーの「カビ臭い城」の死ね死ねコントとかw)




アニメは偽嘘(うそ)で出来ている


血潮は作画で 心は編集


幾たびの修羅場を越えてヤシガニ


ただの一度も黒字はなく


ただの一度も理解されない


担い手はここに孤り


偽嘘の丘で偽嘘をつく


ならば我が生涯に意味は不要ず


このアニメは無限の偽嘘で出来ていた

「スカイ・クロラ」…もう一度「死んで」みようと思った、男の日常。

最近出崎と舞-HiME漬けだったので、知識人からは「テーマが何だよあん畜生」の「スカイ・クロラ」をようやく観た。
なんかね、思ったよりも面白かったねw
この映画は押犬が「ティーチャー=出崎」と対峙して「死んで」みせることが裏テーマのような気がする。
出崎の固有結界というべき「海と白」は「空と雲」に、「劇画」は「作画アニメ(だってばよ)」と対の要素で固めているが、
そんな対の要素が「生きる」ことはなく前者に「死んで」みせてしまう。
新房の「俺出崎」=「出崎のスタイルを生きる」とは違う、「出崎のスタイルに「死んで」しまう」という押犬のスタイルが全面に出た、
この先も必見の映画になるでしょうな。

以前書いた劇場版クラナド感想再掲+

手直しできる環境にあるので、以前書いた劇場版クラナドの感想を再掲(+二回目雑感)します。

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劇場版CLANNAD』は『劇場版AIR』の「構成」への原作ファンによる不評を考慮して制作されたという。

冒頭の岡崎朋也は『劇場版AIR』の国崎往人のような「旅人」ではなく、わけありの閉塞した学生だ。

一見すれば出崎度の低い人物だ(実は夢の中では孤独な「旅人」であったが)。

<追うこと>を美徳とする原作ファンはそんな彼を見て「絵は仕方ないけどw話の筋は<追えて>いるな」と安堵するだろう。

ところが、ラストの汐と再会した朋也は「旅人」としか言いようもない姿を見せ、我々の視界から消えてゆく。




劇場版CLANNAD』の「物語」は至ってシンプルなゴールが設定されている。

「大人になってない」朋也が、渚に似た汐の顔を<見る=観る>ことである。





劇場版CLANNAD』は、主人公=朋也の「回想」の物語として構成されている。

「今・ここ」の出来事として<観ること>を求めた『劇場版AIR』と違い、<追われること>を甘受したかのように見える『劇場版CLANNAD』。

<追われること>を前提とした映像は、出鱈目なバネ足の運動と露悪的ともいえるハレーション/入射光/丸いフレアに彩られている。

それらは数年後の汐を<見る=観る>ことに対する<「祝福」装置>だということに観終えてから気づくことになる。

「回想」にしか無く出鱈目な「祝福」が、「今・ここ」に第三者を通して侵入すること。

<「CLANNAD」は「人生」>の「人生」とはそのような出来事を指すのかもしれない。




出崎が映画に仕掛けた<「祝福」装置>は、繊細さを欠いた詐欺師の手品であると云わんばかりだ。

人はそれを口にした時、<追うこと>から<観ること>を学んだといえる。

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(ここから二回目感想)

〈見る=観る〉ことを中心に一回目の感想は纏めてしまったが、『劇場版CLANNAD』の醍醐味に渚@中原真衣の声を〈聴く〉ことがあるのを忘れてはいけなかった。
独り芝居の語りに動揺する朋也の聞き入りっぷりは、渚の声の力無しに成立しない。
渚の声に惹かれるものだから、伊吹先生@皆口裕子の登場時に声に違和感を感じたのは内緒だw

あと、桜が舞うエフェクトの柔らかさとかGenjiに通じる自然描写に改めてウットリ。

白鯨伝説をちびちび見出しているせいか、渚=白鯨説を唱えたくなってくるw

劇場版マクロスF の「橋」について。

劇場版マクロスFは矢鱈「橋」が場面に出てくる。
アルトにとってそれは存在の束縛なんだけど、二人の歌姫はそこから自ずとはみ出そうとする場なんだよね(彼女たちの「橋」はわざわざ飛び降りる=はみ出す為に切断されたイメージとして現れる)
そんな「橋」に果敢にも援護射撃をして死亡フラグで逝こうとしたミシェル君は素晴らしすぎるw

劇場版マクロスF を マクロの「空の兄弟」と観にいった。

「ある意味上巻で完結してるよ、満足(宗蓮さん)」…だと。

観た人には解るが、実は俺にもそのようにしか見えなかったw

あれだ、ヱヴァ序破のカヲル確変エンドように、あのね商法エンドじゃないってことw

きっちり作られているのかと言われると、破と較べれば展開や画や音付けに非常に危ない綱渡りが行われている(NGショットがほぼ皆無なのが破の売りである)
しかし、ヱヴァが序から破にかけて抽象したものを劇場版マクロスFはキャラクターの魅力や作品の強度に昇華しきっているからこそ「上巻で満足」という感想が出てくるのですよ、と思うわけだw