リュー・チャーフィーの昔話が映画を観た後に聞くと興醒めしてしまう位、素晴らしい映画だった。
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そこで、「少林寺」もので傑作とされる『少林寺三十六房』を観て、何が今年の「カンフー」映画を駄作足らしめるかを探ることにした。
『少林寺三十六房』を観て解ったのは、今年の「カンフー」映画には「功夫」の本来の意味である「練習・鍛錬・訓練の蓄積」が欠如していることだ。
今年の「カンフー」映画の「カンフーくん」「少林少女」は「練習・鍛錬・訓練の蓄積」をすっ飛ばして、「真の強さとは」といった、超絶的な力を持った強者が至る「真理」を観客に「道徳」として与える。
一方の『少林寺三十六房』は「練習・鍛錬・訓練の蓄積」が「実践」・「実用」される過程を丹念に見せるだけだ。
一見前者の「カンフー」映画ほうが健全に見える。しかし、「カンフーくん」の主人公の本名が明かされなかったり(誰もまともに聞きもしない)、「少林少女」のラストが「想像を絶する気」で解決したりとカルト的なヤバさを感じざるを得ない代物になっている。
『少林寺三十六房』の主人公は「名のある民」のために「武術」を会得してゆく。超絶のスピードで会得しながらも、確実に躓き血を滲ませて止揚していく様、修行の成果が反映されている武術は、「道徳」を超えた彼自身の「倫理」が見えて胸を打つ。
「名のある民」は「功夫」を馬鹿にする前に、『少林寺三十六房』を観るべし。