「不純螺旋」……あるいは「希望は殺害(されたい)、黒桐鮮花をひっぱたたきたい!パッションのためのノート」(BY AS6)。

両儀式≒脳内真綾≠坂本真綾

空の境界」第五章の、個人的に予想を超えた素晴らしさに、「オレ」が胸一杯なところに、「空の兄弟」の二人は直ぐに水を差した。
「六章の鮮花に全部持ってかれたよ」
ふざけるな! 「○リポタ」とか「○イラの冒険」みたいな予告編に出ずっぱりの鮮花を口にする前に、あらゆる男どもの報われない恋心を全身全霊で焚き付けた、両儀式による、男たちを葬儀式する鮮やかさを脳内からひねり出せ!
「鮮花がいれば違った式が観られるんだよ」
まだ観れてないから、知らん(文字では何となく知っているが)。
今のレーテストな劇場の式を堪能しないでどうするんだ!
ちなみに、「オレ」が式にお熱なのは、両儀式坂本真綾が演じているからではありません。
真綾のキラッ☆と光る活動・特徴を厳選(偏向)して楽しむうちに構築されたイメージ、脳内真綾に明確な形をカッ裁いたのが両儀式、だから!
両儀式を通して、ようやく声優としての坂本真綾を楽しめるようになってきたわけで、以前は脳内真綾のほうが崇高すぎて、いちいちこのマーヤは違うとかウジウジしちゃってたわけ。
両儀式先生は崇高な脳内真綾像(笑)を具現化しながら、そんなものをわざわざ「殺してやる」とか声をかけてぶち壊してくれて、ソースの坂本真綾を楽しめる部位を増やしてくれるんですよ。
脳内真綾をサービス込みで具現化し、鍛えてくれる、両儀式に惚れなかったら男が廃ります。
脳内妹を住まわし可愛がることには(最近はてなスターをくれるグダちんさんには大変申し訳ないけど)興味ないけど、脳内真綾との付き合いは今・ここ・これからもあるぜ!(爆)

○「矛盾螺旋」……式のフルコース/男たちのレシピ。

矛盾螺旋」の両儀式は素晴らしい……いや、彼女の魅力を引き出す哀れな男たちが羨ましい(笑)。
硯木秋隆という滅多に出てこない使用人は、率先してご都合主義の駒のレッテルを受け入れ、式の衣類・下着(普通にバリエーションに富んでいて、顎を外しそうになった(笑))のコーディネイトする責務を負っている!
今回の主軸となった臙条巴は、式に助けてもらったうえに(太腿チラッ☆させたのもポイント)、彼女の家にかくまってもらって、ハーゲンダッツのストロベリーを彼女の目の前で食べ続け、コクトーがいなければゴミ屋敷化する殺伐とした彼女の生態を、恩義から下着の洗濯までサポートしたり、バイクの助手席に彼女を乗っけて刹那のドライブを楽しみ、最後は彼女のために自己犠牲! 式の心の中の忘れられない人になった。
スーパーヴィラン荒耶宗蓮は、式のために小川マンションを用意し、結界の中に彼女を閉じ込めたり、スーパーバトルを演出し、最後には式に断ち切られるという、マニア目線のロマンを成就させる。
そして、黒桐幹也は、天然で式のツンデレを臨界点に高める、エロ漫画の男の子の役割をエンジョイしている!
アルバは……式にまったく構って貰えませんでしたね。幹也を苛めていたのは、式ファンの「陰」を体現していたことにしよう(笑)


しかし、こいつらほんとに羨ましいなぁ(笑)
こいつらの行動をマイ・アカシックレコードに刻み付けるための、小川マンションが欲しいぜ!
でも、「オレ」は宗蓮さんになれないから、また映画館でその全能・不能感を体感することぐらいしかできない(え〜)。



●「矛盾螺旋」…… 「ポスト・男の子」監督たちの、作品群の堆積/ビックバン
矛盾螺旋」は平尾監督が言うように、今敏のオマージュが汲み取れるシーンがある。
小川マンションは、『東京ゴッドファーザーズ』的な「顔」がある造形、ドメスティック・サイコと言うべき臙条巴の体験と時間軸を粉砕してゆくフィルムは『PERFECT BLUE』的である。
ちなみに、今敏作品のテーゼの一つに、アニメーションで世界観を立てるために「女優」を構築する姿勢が挙げられる。
劇場版『空の境界』シリーズもまた、世界観の主軸である両儀式の存在をいかにフィルムに焼き付けるかに腐心している。
ufotableのアニメは他の映像作品の表現をパスティーシュすることが「手癖」として見られがちだが、その「手癖」が何を得ようとしているのかを考えれば、キャラクターを画面上に特異なものとして存在させるためであると言えるのではないか。


矛盾螺旋」には、今敏の他に、黒沢清タランティーノ、リンチ、「夏エヴァ」、今川「ジャイアント・ロボ」といった、90年代の「濃い」作品群がどんどん思い浮かぶ。
「俯瞰風景」の あおきえい も、デヴィット・フィンチャー「セブン」川尻善昭的ハリウッド・アクション映画「ブレイド」を参考にしたと語っている。
なぜこれほどまで、劇場版『空の境界』が90年代の映像作品に固執するのか?
そもそも、『空の境界』の舞台の年代が1996、98、99年であり、今回の映画シリーズはそこを強調するために、白抜きの年号が度々挿入される。
街の描写のリアリティも90年代に依拠した作りで、90年代に式たちがいた、というリアルを観るものに与えるためのガジェットとして、90年代の映画を引用したと考えれば合点がつく。
リアルがあるからこそ、式は輝く。
すべては、キャラクターのリアルに奉仕する、という点では、宮崎ジブリには及ばないにせよ、京アニやI.Gよりも、ufotableは潔さをもっている。