『劇場版CLANNAD』

劇場版CLANNAD』は『劇場版AIR』の「構成」への原作ファンによる不評を考慮して制作されたという。
冒頭の岡崎朋也は『劇場版AIR』の国崎往人のような「旅人」ではない。
<追うこと>を美徳とする原作ファンはそんな彼を見て「絵は仕方ないけどw話の筋は<追えて>いるな」と安堵するだろう。
ところが、ラストの汐と再会した朋也は「旅人」としか言いようもない姿を見せ、我々の視界から消えてゆく。



劇場版CLANNAD』の「物語」は至ってシンプルなゴールが設定されている。
「大人になってない」朋也が、渚に似た汐の顔を<見=観ること>である。



劇場版CLANNAD』は、主人公=朋也の「回想」の物語として構成されている。
「今・ここ」の出来事として<観ること>を求めた『劇場版AIR』と違い、<追われること>を甘受したかのように見える『劇場版CLANNAD』。
<追われること>を前提とした映像は、出鱈目なバネ<足>の運動と露悪的ともいえるハレーション/入射光/丸いフレアに彩られている。が、それらは数年後の汐を<見=観ること>に対する<「祝福」装置>だということに観終えてから気づくことになる。「回想」にしか無く出鱈目な「祝福」が、「今・ここ」に第三者を通して侵入すること。<「CLANNAD」は「人生」>の「人生」とはそのような出来事を指すのかもしれない。



出崎が映画に仕掛けた<「祝福」装置>は、繊細さを欠いた詐欺師の手品であると云わんばかりだ。
人はそれを口にした時、<追うこと>から<観ること>を学んだといえる。