以前書いた劇場版クラナド感想再掲+

手直しできる環境にあるので、以前書いた劇場版クラナドの感想を再掲(+二回目雑感)します。

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劇場版CLANNAD』は『劇場版AIR』の「構成」への原作ファンによる不評を考慮して制作されたという。

冒頭の岡崎朋也は『劇場版AIR』の国崎往人のような「旅人」ではなく、わけありの閉塞した学生だ。

一見すれば出崎度の低い人物だ(実は夢の中では孤独な「旅人」であったが)。

<追うこと>を美徳とする原作ファンはそんな彼を見て「絵は仕方ないけどw話の筋は<追えて>いるな」と安堵するだろう。

ところが、ラストの汐と再会した朋也は「旅人」としか言いようもない姿を見せ、我々の視界から消えてゆく。




劇場版CLANNAD』の「物語」は至ってシンプルなゴールが設定されている。

「大人になってない」朋也が、渚に似た汐の顔を<見る=観る>ことである。





劇場版CLANNAD』は、主人公=朋也の「回想」の物語として構成されている。

「今・ここ」の出来事として<観ること>を求めた『劇場版AIR』と違い、<追われること>を甘受したかのように見える『劇場版CLANNAD』。

<追われること>を前提とした映像は、出鱈目なバネ足の運動と露悪的ともいえるハレーション/入射光/丸いフレアに彩られている。

それらは数年後の汐を<見る=観る>ことに対する<「祝福」装置>だということに観終えてから気づくことになる。

「回想」にしか無く出鱈目な「祝福」が、「今・ここ」に第三者を通して侵入すること。

<「CLANNAD」は「人生」>の「人生」とはそのような出来事を指すのかもしれない。




出崎が映画に仕掛けた<「祝福」装置>は、繊細さを欠いた詐欺師の手品であると云わんばかりだ。

人はそれを口にした時、<追うこと>から<観ること>を学んだといえる。

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(ここから二回目感想)

〈見る=観る〉ことを中心に一回目の感想は纏めてしまったが、『劇場版CLANNAD』の醍醐味に渚@中原真衣の声を〈聴く〉ことがあるのを忘れてはいけなかった。
独り芝居の語りに動揺する朋也の聞き入りっぷりは、渚の声の力無しに成立しない。
渚の声に惹かれるものだから、伊吹先生@皆口裕子の登場時に声に違和感を感じたのは内緒だw

あと、桜が舞うエフェクトの柔らかさとかGenjiに通じる自然描写に改めてウットリ。

白鯨伝説をちびちび見出しているせいか、渚=白鯨説を唱えたくなってくるw