はじめまして、a-strange-6891です。
ぼちぼちあれこれ更新していきますが、赦してやってください。
さて、はてな初の日記は、この日記のタイトルについてです。
お察しとおり、「赦されざるもの」はジョン・ヒューストンの“The Unforgiven”[1960]やクリント・イーストウッドの“Unforgiven”[1992]の邦題を「不用意」に捩りました。
「不用意」というのは、私に上記2作品を見た記憶が無いという無作法ぶりを指します。近日ビデオ・DVDでせめて“Unforgiven”だけでも確認しようと思いましたが、借りられていました。(追記 “Unforgiven”は観ましたが、ヒューストン、さらに三池崇史の「赦されざるもの」は観ていません)
しかし、無礼を承知で、このタイトルで日記を早く始めたかったのです。
「西部劇」のヒーローは常に既存の共同体に異邦人=ストレンヂアとして空手で介入します。既存の共同体の秩序はヒーローの存在で崩壊し、人物たちに新たな関係性が生まれます。そして、新たな関係を築いた人物に名前を呼んでもらってから、ヒーローは静かに立ち去ります。
日記を始めた理由は、ミスチルの詩じゃありませんが、でもヒーローになりたかった……わけじゃないんですねー
ヒーローになるための条件として、既存の共同体から眼の敵にされることを引き受け、共同体を結束する「法」を破ることを厭わない「赦されざるもの」でになることが求められます。「西部劇」に問わずあらゆる作品は「赦されざるもの」の出現によって物語の火蓋が切られます。「赦されざるもの」であることはどういうことなのか、自問や葛藤の度合いで各物語のヒーローの格が決まるといっていいでしょう。
端的に言って、この日記でやりたいことは「赦されざるもの」についての思考です。