Helpless

気づいたら、年号が平成になってから20年経っていたんですね。
「これでいいのだ ハンタイのサンセイなのだ」(平成天才バカボン)で突き進んだら、職についていても「絶望した」(絶望先生)と叫ぶしかない世の中となってしまったといいましょうか……

さて、今回は「赦されざるもの」というタームを引き出すきっかけとなった、
青山真治の『Helpless』[1996]
について少し書きます。

Helpless [DVD]

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舞台は1989年9月10日の門司。
昭和天皇崩御して、平成元年を迎えたこの年、一人の男が服役を終え街に戻ってきた。
安男と呼ばれるその男は地元のヤクザであったが、出迎えたオヤジ(組頭)の息子にオヤジは死んで組も無くなっていた事実を告げられる。
事実を受け入れることができない安男は、オヤジの息子を突然射殺します。
逃走する安男は昔の好にオヤジの死を尋ねるが、返答は「死んだ」としか返ってこないわけで、激怒するたびに安男は次々と屍を重ねてゆく。
一方、安男と同じ団地に住んでいた健次という高校生は人生の岐路に立たされていた。
健次は、精神を病んだ父の看病をしながらスクーターで通学し レストランでナポリタンとコーラを租借する日々を過ごしていたが、安男との再会でそうした平穏が崩れてゆく。
安男に呼び出された健次は安男の妹、ユリを託され、あてもなく場末の喫茶店に入り父に連絡を取ろうとします。
ユリに組の亡霊を見て、ただならぬ雰囲気になった喫茶店で電話を使えず外に出る羽目になった健次。
電話の付近のトンネルで卑屈な苛められっ子の秋彦に出会い、何の脈略もなく「赦してやるよ」と秋彦に言われ、喫茶店の侵入を拒むことが出来ません。
健次が父に電話すると、既に首を吊って死んでいました。
茶店に入った秋彦によって、さらに険悪な空気が立ち込める中、健次は店に三輪車を投げ込み、誰の思惑にも従わない暴力を発露してゆく……
9月11日、健次はユリを連れ街を後にするが、安男の幻影を見る……

初見では、これは「孤立無援」の人物たちの物語だと思ったんですが、最近になって、平成(1989年〜)以降をどのような覚悟で生きるかをテーマにした作品だと思うようになりました。
その覚悟とは、「赦されざるもの」であることを積極的に受け入れられることです。

Helpless―ヘルプレス

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健次は苛立っていました。
安男の身勝手なユリの押し付け、父の勝手な自殺、喫茶店の夫婦の勝手な憤怒、秋彦のクラスメイトの毒殺計画のリストから勝手に「赦して」もらうこと。
健次にとって、彼らの論理は「ワン・プラス・ワン」(映画の冒頭で、揺れる門司の俯瞰をバックにタイトルが「lpl」と表示される)を無理やり押し通す、健次の父が勤めていた「廃墟」に見える工場のそれと同類でした。
健次は、小説版の言葉を借りるなら「ふうたらぬるう」=フラヌ−ルを望んでいました。
しかし、「孤立無援」になりたいわけではない。事実、ラストはユリを連れて門司を後にします。

「孤立無援」になったり恐れたりするものは、秋彦を除きすべて死に、「赦されざるもの」である健次とユリ(無音で「愛のサザンクロス」を観たり、パフェを眺めている行為は「赦されざるもの」のそれでしょう)は生き残ることができたのは偶然ではないでしょう。
青山真治は以降の監督作で、「赦されざるもの」をめぐる共同体の物語に腐心することになります。

『Helpless』に邦題をつけるとしたら、「孤立無援」ではなくて「赦されざるもの」ですね。