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墓場鬼太郎 (5) (角川文庫―貸本まんが復刻版 (み18-11))

墓場鬼太郎 (5) (角川文庫―貸本まんが復刻版 (み18-11))

墓場鬼太郎』 総評


ノスタルジー(「懐かしさ」に溢れながら、一方で閉鎖的な「保守的空間」)・ノスタルジーをぶち壊す「生きる」者のサバイバル・不条理に無差別な「禍」(転じて「福」もきたりするのだが)……最近のエンタメの「傑作」要素を遺憾なく発揮した作品だった。


アニメ『墓場鬼太郎』には、水木さんの反復と幽体時の「幸福(=達観)」や、鬼太郎と偽鬼太郎の「見た目」上の差異のなさ等が違和感としてあったが、固有名詞=歴史たらしめる確定記述(*)、その束の「余剰」(存在そのもの)を見せようとする『墓場鬼太郎』では重要なガジェットだったんだろう。


特に、(鬼太郎もそうなんだけど)ネズミ男の行動原理が『ノーカントリー』のシガーと重なるところがあって興味深かった。
時間がある人は、『墓場鬼太郎』と『ノーカントリー』を見比べてみると「不条理」な「生」を駆動させる「妖怪」たちの原理をつかめるかもしれませんよ。


改めて、「怪談」とは
柵(しがらみ)の世界に対する「紛糾」でもない、「共同体」(貧富を問わず)を賞賛するわけでもなく、ただ個々の柵の中にある得体の知れない「生」を抉り出すもの。それは、柵からスポイルされた「生」をアイデンティティとする「怪」を柵の世界に投入することで可能とする形式だと思った。


また、世の中が、世代ごとで蛸壷空間を作り上げているノスタルジー・ブームの中で、棲みつく空間=ノスタルジーすら厭わない「妖怪」たちを見ていると、「怪談」の本質はノスタルジーから零れ落ちる「生」にあるのだと思った。


ノスタルジーのアンチテーゼとして「怪談」は求められるのだ。


「女性の社会進出」が「ノスタルジー」になるまで、しばらくは「男性中心社会」の「廃墟」に戯れる厨房みたいな「妖怪」と共に、燻ってしぶとく生きるしかないのだ。


(*)自由奔放なシリーズとはいえ、シリーズゆえに『ゲゲゲの鬼太郎』は確定記述、紋切り型・典型ともいえる固有名詞に雁字搦めになっている(視聴者・製作者共に)。『ゲゲゲの鬼太郎』と共に、『墓場鬼太郎』を同時並行で作る(観る)ということは「鬼太郎の原点」を正面から振り返ることにほかならない(と書いておきますが、今期の『ゲゲゲ』は観ていないので悪しからず)。