「THE・ダーク・内藤 〜ババの境界〜」

オリジナル・サウンドトラック ダーク・ナイト

オリジナル・サウンドトラック ダーク・ナイト

ダークナイト』を観る。
想像していたほどハリウッド映画からかけ離れた映像の質感でなかったのは意外だったけど、その地続きな映像の作りゆえにクリティカルな「善悪の彼岸」を描いたことの凄さを考えさせる(現代の作り手ならば余計に)ものになっていた。

ここからネタバレ注意


本編のジョーカーの空気レベルの悪意っぷりは、役者ヒースを賞賛するのが憚れるほど凄かったけど、ハービーがトゥーフェイスという怪物になる過程が説得力があり過ぎてビビった。
終盤の病院爆発から錯乱とした状況の中であれよあれよと、ゴッサムの住民がファッショされていく様はそこまでして逃げるのか!と突っ込みたくなるけど、スケアクロウよりマジ面恐いトゥーフェイスの神出鬼没の復讐劇を見せられると妙に納得してしまった(リピート鑑賞したいと思わせるこの映画の見せ場!)。



この映画は、〈資本主義=「ババ抜き」のゲーム〉を体たらくにエンジョイする善人と悪人が、彼らの「勝利」の裏にある「負け」=「ババ」=ジョーカーの独り歩きによって、善人・悪人を問わず彼らの存在=〈「ババ抜き」のゲーム〉自体が脅かされる様を描いている。
バットマン」と呼ばれていた男は、以前は悪人たちが優勢な〈「ババ抜き」のゲーム〉を「平等」に見守る存在にすぎなかった。
〈「ババ抜き」のゲーム〉が善人に不利にならないように続くこと、悪人もまた善人に代わる機会を保証すること、自らの力で限りなく害が及ばない〈「ババ抜き」のゲーム〉を作り上げるのが彼の信条だった。
しかしジョーカーによって、彼は存在の質的変化を求められる。
ジョーカーは、〈「ババ抜き」のゲーム〉に「負け」があることをただ証明するために犯罪を行う。
〈「ババ抜き」のゲーム〉を頑なに管理する「バットマン」は、自らの信条に「負け」の存在を許している事実に苦しむ。
バットマン」が信条を貫くほど、純度の高い「負け」を生成するジョーカー。
「負け」の連鎖によって、善と悪を演じる人間たちが崩壊していくのを黙って見過ごすことのできない、「バットマン」。
ゲームがただ崩れることを嫌い、自分を生かし、意地悪く全員に生殺しを続けるジョーカーに、「バットマン」はある決断を下す。
〈「ババ抜き」のゲーム〉に参加する人々自体に「負け」に対して強度を持たせること、そのために以前より増してゲームに「畏れ」を実感させる存在へ変わること。
体面的に〈「ババ抜き」のゲーム〉を絶対的に司る、人々から畏れられた存在、「ダークナイト」になることで、ジョーカーが仕掛けた〈「ババ抜き」のゲーム〉崩壊を防ぐことを映画のラストで明示して終わる。
孤独であるための強力な外面を作ることで初めて、破滅の欲動を抑えること=自己存在を保つことができるという、愛もロマンも減ったくれもない事実がそこにあるが、〈「ババ抜き」のゲーム〉に曝される自己を問うことを可能にし参加する人々を平定させる必須の条件でもある。
また〈「ババ抜き」のゲーム〉を脅かしたジョーカーが醜い外面を終始取り繕う、内面なき存在として描かれているのは上記と呼応するところがあって興味深い。
それゆえに、「平等」に振り回された揚句、外面を取り繕うことを放棄したトゥーフェイスが哀れである。