○第一章「俯瞰風景」……「着る=背負う→生きる/死」という説話/青、赤、その間の黄色を「見ること」


〈1〉「着る=背負う→生きる/死」という説話

再鑑賞して、「着る=背負う→生きる/死」という、映画的説話を第一章の時点で確立していたことに気づき驚いてしまった。
劇中の両儀式は「着る」女として描かれている(*1)。
特に、黒桐幹也の魂を奪い返すことを決意すると、デフォルトの青い和服の上に、トレードマークの赤い革ジャンを羽織り、さらに巫条ビルに現れたときには黄色のレインコートを重ね着している(「普通」に考えると傘でもいいはずなのに)一連のシークエンスは見逃してはならない。
劇中で「動かす魂がなければただの器でしかない」「我々は背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で、罪を背負うべきだ」という蒼崎橙子の印象的な台詞があるが、両儀式は「選んだ道」にあわせて服を「着る」、つまり両儀式の「着る」という行為は「罪を背負う」こと=〈「動かす魂」を持つこと〉と同義だ。
ただし、「罪を背負う」ことは容易ではない。
巫条霧絵は「霊体の死」を実体で「着る」ように実感しようして、ビルから飛び降り、死んだ。
両儀式もまた、第二章以降で明らかとなるが、男性人格の「織」を失っている。
彼女は「オレ」という一人称を口にすることで、「織」を「着る」。
そして、同時に「死」を「背負う」ことで、「空の器」から峻別している。
劇場版『空の境界』において「着る」という行為は重い、しかし「着る」ことを描くことで「生きる/死」を語ることを可能にしている。

〈2〉青、赤、その間の黄色を「見ること」
「着る」という映画的説話のほかに、劇中では、青、赤、そして黄色の三色が映画的説話を持って使われている。
第一章の監督:あおきえい の演出が「直死の魔眼」の「見る力」を円形のもので象徴させていく中で(「見ること」の説話)、信号機が出てくるが、そのイメージの連想からその三色が映画の基調となったかもしれない。
ここで〈1〉のことを踏まえつつ、「見ること」の説話と共に、三色の説話を考えてみる。
両儀式は「着る」女であり、「見る」女でもある。
巫条霧絵は、「青」の和服を「着る」両儀式と呼応する「青」い髪をもち、存在の危うさという点で両儀式と似たものを持っていたが、終盤まで「見ない」女として、式に立ちはだかり、式の「見る」力によって倒されてしまう。
霧絵は月=「黄色」(親近の対象だが「見て」いない)に背に、自殺した女子高生たちのがらんどうの魂と共に浮遊していたが、自殺体=赤を排除する「見ない」暴力を無自覚に振りかざしていた。
そして、「青」の虹彩で「黄色」を「見る」視点を担う黒桐幹也(映画冒頭の黄昏色の「とんぼの夢」や、ラスト前の踏切で式と会話するシーンは黒桐の視点だ)を「見ない」暴力に巻き込み、「見ること」=魂を奪われる。
「着る」ことと同様に「見ること」の大切さを知っていた両儀式は、黒桐の視点=魂を取り返すために、黄色のレインコートを着て距離を詰め(第一の戦闘は、「黄色」い立ち入り禁止のテープを切ってしまったために、霧絵を「見る」ことに失敗した反省から?)、霧絵が「見ない」暴力で排除した赤、「見よう」としなかった霧絵自身の姿に似た「青」を纏って、「見ない」暴力にそれらを見せつけることで対峙する。
両儀式の「見る」力で貫かれた霧絵は、「見ない」暴力で排除してきたものを、見つめなおす道を選び(自殺直前の月のインサートは「見ること」=魂を取り戻したことを暗示する)、笑みを浮かべるほどの充実を迎えて自殺する。
戦いを終えた式の黒桐とのやり取り(踏切、式のアパート)は、「青、赤、黄色」の三色の調和(*2)が感じ取れる(驚くべきは、ラストのハーゲンダッツ(赤)、両儀式の服(青)、黒桐幹也の夢(黄)を調和させる切り返し)。
「着る」という行為は重いと〈1〉で述べたが、「見ること」もまた重みのある行為だ。
空の境界』の登場人物たちは、「着る」・「見ること」を通して「空の器」に「動かす魂」を宿していく。
ちなみに、「空の器」に「動かす魂」を宿すことは、アニメを作る・見る行為と似ている。

(*1)劇場版『空の境界』のビジュアル・オマージュの一つに押井守の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』が挙げられるが、その『攻殻』に出てくる主人公:草薙素子は、「着る」女の両儀式に対して、「脱ぐ」女として描かれている。映画冒頭から、全裸に限りなく近い光学迷彩のスキンの出で立ちで登場し、裸の女として彼女の義体が製造されるシークエンスがあり、戦うたびに光学迷彩のスキンの姿となる。そして、多脚戦車との戦い・人形使いとの接続の果てに頭以下の身体を失う。戦闘が終わった素子にジャンパーを羽織らせ、第二の義体坂本真綾が第二の身体のデフォルトの声であったことは、今から見れば予言めいた因縁を感じる)を用意したバトーは、結局彼女の「脱ぐ」運動を止めることはできなかった。

(*2)蒼崎橙子は、三色の調和、「着る」・「見ること」に最も自覚的な存在として描かれている。