地球少年肉刺柴の『ジュナ』評 第一章 『地球少女アルジュナ』のためのイントロダクション

Lucy(ルーシー)

Lucy(ルーシー)

恐怖の大王が遣って来ることもなく、2000年問題も何とか乗り越え、世界中が2001年を「21世紀」=「新世界」として同時に祝った。
そんな2001年を迎えたての正月の日本。
三箇日を明けてから早々、テレ東では「今日、私は死んだ」「今、この星に起こる奇跡」といった大層な文句を並べる「デカルチャー」なアニメーションが放送された。
山と陸、内・外海を短時間でアクセスできる神戸(現実の1995年の阪神淡路大震災で、神戸は一時陸の孤島と化したが)を舞台にした、『地球少女アルジュナ』である。

「じゃりん子」でもない年頃の普通の高校生、有吉樹奈は友達以上恋人未満の大島時夫と日本海を見に行く途中見知らぬ物体に突き飛ばされ臨死状態に。
臨死状態ので「無」の淵に引きずりこまれようとした樹奈に、思念体を飛ばせる能力者・クリスが近づく。
彼は見知らぬ物体=「ラージャ」を清める戦いを行う「時の化身」になるならば命を与えることを約束し、訳もわからず樹奈は受託する。
目が覚めた樹奈は、「時の化身」として「ラージャ」との戦いを始めるが、その中で万物のの生死の循環、人間の欲望と疎遠になる関係の営みを超感覚で受け止め苦難していくことになる……

日本のネット文化も思春期だったのか、河森正治がこの作品に持ち込んだ「"リアル"に対する"現状認識"」を前に多くの人は非難轟々だった。
私は「漫画」読みではないので、適当なことを言っているかもしれませんが、『AKIRA』以降90年からの漫画は「"リアル"な"ジャンル"」以上に切り込んだ「"リアル"に対する"現状認識"」を良くも悪くもテーマに据え、作品世界と現実世界の問題を「シンクロ」させることに労力を注ぎ始めたなかで、アニメは「エヴァ」「もののけ姫」以降、目立った「"リアル"に対する"現状認識"」を持ち込むアニメが出なかった。
アニメは「リアルに対する"現状認識"」を持ち込むことを回避する傾向があるのではないだろうかと思う。
代りに、アニメは「萌え記号(フィクションとわかりきっているもの)の戯れの中」で「成熟しないという、成熟」に対する「現状認識」に淫する表現が異常深化(歓迎されていた)したのではないか。

アルジュナ』への非難はあるべきだが、日本アニメの伝統=特性を踏まえておかないと、「リアルな"現状認識"」をアニメに持ち込む意義を見落とすことになる。
「漫画版 風の谷のナウシカ」のほうがスゲーとか言っても、芽が出ませんしね。
アルジュナ』に非難轟々した人は「"リアル"に対する"現状認識"」の「力」の誘惑に敏感に反応しすぎているんですよ。
アルジュナ』の放送終了後、9月11日の「アメリ同時多発テロ」が起きて、ますます「リアルに対する"現状認識"」が日常に追いきれないほど介入することを認識しなければならない羽目になります(同時に「萌え記号の戯れの中」へ「武装」して、現状をやり過ごす方法論も出てくるわけですが)。

「『ジュナ』評」は「"リアル"に対する"現状認識"」をデジタル製作アニメに持ち込んだ『地球少女アルジュナ』の軌跡=『奇跡』を、「大きな声で」呼んでやろうという、「思ってたより、道は遠く」なる感じで進んでいくことになるでしょう。