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創聖のアクエリオン DVD-BOX

創聖のアクエリオン DVD-BOX

劇場版別売りー局地戦だった『マクロスゼロ』を終えた翌年(2005年)、深夜番組でありながらスポンサーのバンダイによって「超合金」が作られた『創聖のアクエリオン』に河森は原作・監督・アクエリオンデザインに取り組む。
スーパーロボットアニメのフォーマット(街はチープ・濃いキャラ・鋼の拳で解決)を守りながら、神話や自然の摂理、荒唐無稽な不動GENの言動、そして愛のある下ネタ(笑)を強引に合体させる。
観ていて感心するのは、ネタとして面白いながらも真剣な「驚き」を提示し、トータルで見て壮大な「神話」になっていることだ。
これまで河森はブレーズ・パスカル的「3」をテーマにロボット(パスカルも、十七の時に機械式計算機を作ることに熱心だった)や恋愛を描いてきたが、作品の根底を支えるアニメ(フィクション)・現実・「河森の意志・思想」の三角関係に関しては不器用なものを提示する苦渋を強いられていた。
そこで、河森は『アクエリオン』で「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けの神)を導入する(ちなみにアクエリオンは「機械天使」)。
デウス・エクス・マキナ」―ギリシャ語(apo mekhanes theos)からのラテン語訳 ― は古代ギリシャの演劇で解決不能な事象に苛まれた人々=物語を救済する「神」を出す手法のことを指す。
因果関係のない「無」たちを強引に結びつけ「意味のある終わり」を生み出す機械仕掛けの神を、「倫理・理性」的なアリストテレスは批判した(彼はファシズム≒オカルティズムに敏感だったと思う)。
しかし、因果関係の「倫理・理性」的奨励は、中上健次が批判してきた「部落民を再生産する歴史」を作る「英雄を産み出す忘却を孕んだ営み」に加担する一面がある思想だ(『アクエリオン』でアポロがアポロニアスの過去生をもつ「者」と見られることを「アポロニアスじゃない、アポロだ」と終止否認していたが、中上のテーゼである「部落民は"もの"である」に呼応するものである)。
創星のアクエリオン』で「翅」の力に惹かれるスコルピオスがアポロニウスに批判されるのは、この道理からである。
パスカルは、ジャンセニスムの観点から、「神と人の主体的な出会い」を重んじ、神の愛の大きな秩序の元では理性の秩序が空しいものであると機械論的世界観を持っていたデカルトに説いたり、「人間は考える葦」と言って有限の個人がもつ「宇宙をも越える」可能性を追求した。
河森は「デウス・エクス・マキナ」― 人が操りし神 ― を使い、「神と人の主体的な出会い」のなかで「考える葦」になるキャラクターを描き、ついにパスカルの理想と「創聖合体」したのだ。