小説『シンデレ』 プロローグ(1)

南刀児島は死んだように眠りたかった。このまま、一年間ずっと目を閉じていたかった。しかし、児島自身の身体はそれを許さない。これまで、二度も瞼に意識が燻った。一度目は、昨日の下校時刻から十二時間後、そして今の二回目は登校するための食事をグシャグシャに詰め込んでいる時間だと思われる。食欲と胃を苛めて、児島を起こそうとする身体。死に体ではなく、健康体であった。休息の為の眠りは要らない。
児島は急に息を止めた。口と鼻に力を入れて、外気を閉ざした。頭に血が詰まるのをイメージしながら。しかし、鼻水が顔に緩みを与えてやめてしまった。登校のために冷えて塵まみれの外気に晒されていたからだ。苛立ちを感じながら、児島は寝返りを打った。枕に顔を押し付けた。普段より、枕は硬く、べっとりとした感触を覚えた。成長期は終わり大人に成ろうとしている。成長することも大人に成ることを望まない。ピーターパンが羨ましい。彼は体臭からも逃れているに違いない。飛びながら呼吸はすることは朝飯前、汗一つ掻かないのだろう。ピ−ターパン自身の匂いを気にする奴は、あの世界にいないし、彼も気にすることはない。美しさと悪だけを感じる、嘘の世界で生まれ変わりたい。
一分もしないうちに、児島は顔全体の筋肉の疲れがピークに達し、枕に伏しながら穴という穴を開放した。脂と汗や涎が混じった古い匂いが鼻と顔を刺した。これだから、大人は一生床に伏してはいけないし、風呂でも入っていればいい。唇を舐めて、塩気を感じた。突然、児島の瞼に「美少女」のイメージが浮かぶ。彼女は何時かは解らないが、結末が後味の悪い夢に関与したと思われる。年頃ははっきりと解らない。彼女と何をしたかも解らない。本当に「女」なのかも判らない。二次元か三次元かも判らない。ただ、「女」を見つめるだけの日常と想像力の産物であることは間違いない。
児島は枕から寝返り、口元に力を入れて大きく深呼吸しようとすると、右肩が圧迫されているように感じて、思わず目を開けた。
赤い肩掛けの服の下に黄色のシャツ。明るい服に似合わず度が行き過ぎたぬらぬらとした髪。蒼白の顔に形をあたえる眼。瞳孔が開いたままのおっかない眼が児島を見渡すと、すぐに顎をあげて唇に歯を覗かせたまま前を向く。同時に、児島は叫びたくなるのを押さえるように、目を閉じてしまった。
母ではないのは間違いない。朝の人の醜態ではなく、生命として崩れているカタチ。こんな姉や妹、悪趣味な兄や弟もいないし。これは夢だな、夢の中で眼を覚ますコツはいつも忘れてしまうけど、念じてみよう。祈る、祈る、屈しろ。
「眠ろうと祈ろうと時間の無駄だ。起きて、飯でも食べなさい、バカもの」
耳に障る、惰性ながら叱りの声が児島に降りかかった。児島は驚きのあまり力を抜いて身体を寝具に沈める。
死んだように眠りたかったんだろう、オレは。現実・非現実だろうとやり過ごしてやる。
児島の想いは、すぐさま左耳の引かれる感覚と共に胡散した。
「いい福耳してるな。君」
「オレの眠りを弄ぶな!」
「弄りがいがあるね、君は」
児島の対面には、気味が悪いぐらい普通のオジサンがニヤリと笑みを浮かべている。
透き通った光が、彼を包むように照らしていて、闇が感じられない分、逆に虞が湧いた。
そんな彼の笑みに、怒りで返そうとして児島は自分の名前を強く放った。
「ナントウ・コジマ君か…ああー、僕の自己紹介してないよね。ヨシオカ・コウジです、よろしく」
「オレを誘拐しても、何も得なことないぞ」
「真っ当な返答だが、僕は君を森で拾っただけだ」
「粗大ゴミをわざわざ拾うなんて、あんた変人だろ」
すぐにヨシオカは笑みを解いて、児島の顔を直視した。怒っているのか、何かを考えているのか読み取れないほど、冷たい顔になった。児島はヨシオカの顔を逸らして、ヨシオカを照らす光源を探した。
光源は右側の奥戸の窓から射しているようだ。
きれいな光が在る……
児島には、光が美しいカタチ、人に見えた。何もかもすらっとした、美しい人。夕日色、長く艶やかな髪や項……
突然、光の人が児島に向いた感覚を与えると同時に、夕日色は紅黒く染まり、髪は沸くようにしてべっとりとしたものになった。
児島が、瞬きをして、直前の恐怖のカタチを思い出すと、既に姿を消していた。ヨシオカのことを忘れて、反対側を探すとドアの前で苛立ちで震える女のカタチがあった。
「飯にしようか」
ヨシオカが児島に呼びかけるときには、無表情から同意を呼びかけるアイコンタクトがあった。
彼の呼びかけに頷いた児島がドアを見返すと、光は影を射し、女のカタチは隣の部屋に恐怖を残して消えていた。