「王様は裸だ!」と生涯を背負って言い続けるのは難しい。

最近『コラムの花道』の町山智浩の回を聴いたりしているのだけれと(ブッシュの半生の集大成映画『W』をネタにした回は彼のトークが最も冴えた回だった)、最近更新された回で「こんな絵、ウチの子だって描けるぞ(my kid could paint that)」をネタに、モダンアートについて色々と語っていた。


「こんな絵、ウチの子だって描けるぞ」は4歳の娘(マーラちゃん)が描いた「ドリッピング」アートがNYのアート市場でウン千万円で売れた経緯と実像に迫ったドキュメンタリー。
あれよあれよとマスコミに持ち上げられたマーラちゃんの絵が、パパの指示を聞いて描いてる様がテレビで公開されるとすぐに価値が崩落してしまい、家族間の関係もギクシャクしていく様が収められているという。
映画の後日談がすでに出ていて、ブームの仕掛け人と、バブル崩壊の仕掛け人が同一人物だったのには驚愕。
その人は市場価値的に不遇を受けているハイパーリアリズムの画家で、コンセプチュアルアートブームに水をぶっ掛けるつもりで仕掛けたという。


さらに話は発展して、モダンアートのバイヤーとコンセプチュアルアートという「高値で売れる有望株」にしがみ付くアート業界&アーティスト(村上隆)に苦言。
<みんな「裸の王様」の世界の住人なんですよ>


そんな話を聞いていて、私は資本主義に生きるわれわれがいつの間にか陥るパースペクティブ(見通し)信仰について考えざるを得ない。
マーケットを賑わす画家になりたかった夢を見たくて、娘に「ドリッピング」をさせて、代わりにアーティストに仕立てる父親。
更なる市場価値を生む事をアートに期待するバイヤーたち。
投資家の要望を満たすために、話題と商品=アートを提供するアート業界。
利益を生み出すアートシーンをわかったふりをする、大衆。
彼らはパースペクティブに群がり、再生産する。
後にのこる「もの」=アート=群集は、ジャンクに成り果てるしかない。
不毛の闘争の陣営から逃れるには、あらゆるパースペクティブから身を引き剥がす事である。
それは、様々なパースペクティブとの衝突を生み、同時に「もの」と絶え間なく対面することになる。
そこで初めて、人は「もの」を生み出す事をはじめる。


町山さんが成金のアート業界人に「ゴッホの呪いで耳がなくなっちまえ!」と言っていたけど、私は体が朽ちるまで作品に接したいと思うのだった。