「幸福の王子」につきまとうのはクローズ(鴉)ばかり。

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督作品『自由への代償』(1974年)を観る。


この映画は見世物小屋で「しゃべる生首」として道化をしていたフォックスが、団長が逮捕され職を失うところから始まる。
フォックスは同性愛者で、男娼行為で小銭を稼ぎながらロトを買って大金を手にすることを夢見ていた。
なけなしのお金でロトを買い続けたフォックスは、ついに大金を手に入れ、前後に男娼で知り合ったマックスという骨董商にアッパークラスのゲイコミュニティへ招かれる。
そこで印刷工場主の息子、オイゲンと知り合い、フォックスは大金を持ったせいか強気に猛プッシュ。
押しに負けたかのようにして付き合いを始めたオイゲンは、父の印刷工場が窮地に陥っており、フォックスにビジネス参画の話とオブラートに包んで投資を持ちかけ借金返済にフォックスの大金を使わせた。
素直に大金を使うこと=いい暮らしに到達できることを信じていたフォックスは、オイゲンに言われるまま次第にオイゲンと彼らのコミュニティに金と自尊心を毟り取られていく。
散々騙され、自分に誰も情を与えては貰えないことを悟ったフォックスは、精神安定剤を過剰摂取して野垂れ死ぬ。
そして、死してなお、少年たちに金品を毟られ、通りかかったマックスたちに冷遇される……


高級車、ディナー、リッチなプライベート空間とBL的な空間がありながら、フォックスとオイゲンとの間に純情が成立しなかったのは文化(階級)の侵犯不可能性にあるのではないかと思う。
インスタントに金を使えば幸福が手に入れられると思うフォックスと、彼の染みついた庶民文化の感性を忌み嫌うオイゲンとの間には深淵がある。
純情は万人に共有可能な文化のレイヤーがあって初めて成立してしまうものだということを思い知らされたし、BLものにおける文学・食事・音楽などの「文化」に対するこだわりがカップルの純情を成立させるガジェット=制度であることや、ファスビンダーのような人の深淵をえぐり出すクイアーなものをどのようにして今生み出せるか(鑑賞できるか)について思うところが出てきた。