デヴィッド・フィンチャー『セブン』(1995)を今見て思ったこと。

セブン [DVD]

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『劇場版 空の境界』『ダークナイト』「宇野常寛の評論」の90年代サブカル作品再構築(または語りなおし)の仕方が最近気になってしょうがなく、90年代の作品を観てみようということで、デヴィッド・フィンチャー『セブン』(1995)を観ることにした。
「7つの大罪」をモチーフにした猟奇殺人がロス市内で起き、老刑事サマセット@モーガン・フリーマンとその後任であるミルズ@ブラット・ピットが捜査する。ミルズは次第に追い詰められ、犯人のジョン・ドゥ(名無し)@ケヴィン・スペイシーが計画した見立て殺人(「嫉妬」した自分を、「憤怒」したミルズに裁かれる)に加担してしまう。というのが大まかな筋。
黒沢清の『CURE』(1997)みたいな不条理現象多発で登場人物が追い詰められていくタイプの映画だと思ったら、雨天だったり現場・襤褸アパートといった閉鎖状況だけ(猟奇事件のプロセスが全く描かれていない)の順ぐりで追いつめられるストイックな構造なのは意外だった(映画の黙示録的ラストから逆算すれば狙いのある構成だとわかるけど)。
また、『ダークナイト』が『セブン』を下敷きにしてたんだということも改めて思った。
例えば、ジョーカーとジョン・ドゥは「社会上に登録されていない無名の男」という点で共通しているんだけど、違いがあるわけで。
ジョン・ドゥの犯行のモチベーションが「七つの大罪」(黙示録)への信仰とその実現=労働に準ずることで自己が発露していく自己完結型の歓びなんだけど(それゆえミルズが「通り魔的」に巻き込まれただけなの感がすごくする。「通り魔的」というのが当時としてはビビットな事柄だった?)、ジョーカーは「平常を脅かす混沌」を観測できる状況であり、「平常」を確かにする存在(バットマン)を挑発し続ける関係性を欲し続けることだ。
『セブン』が自己完結へ向かわせる状況の恐怖と嫌悪を描くためにジョン・ドゥという得体の知れない存在を出したわけだけど、『ダークナイト』はそういった状況が回りまわって「関係性」を創造するのではないかという可能性を提示するものとしてジョーカーを出したと言える。


90年代に見過ごされた「関係性」の可能性を追求するために、あえて90年代の作品を引用することがビビットな三十代の創作論なのかなぁ(宇野の論法っぽい纏めになっっちゃった)。

別記
『劇場版 空の境界』第一章が『セブン』の襤褸アパート逃走シークエンスを参考にしたみたいだけど、Yシャツ式もこの映画から参考にしたっぽくて、そのモデルはモーガン・フリーマンのワイシャツ姿だ(え〜